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おもてて · @jiheiworld

17th Dec 2017 from TwitLonger

今日は自閉症圏の話題。若い保護者や支援者の人が「スケジュールをなかなかやらない」というボヤキをよく耳にするが、そもそも一般社会の「スケジュール」と発達障害界隈のそれとは概念が全く違うやんけ、という話。

少し長くなるので久々にTwitlongerにて。

先日、地元「奈良PECS研究会」主催の勉強会にて実践発表を行うことになったヨメさん、次回の勉強会ではスケジュールの作り方の講義をすることになったらしい。ただの事務局の末席だったはずが(いや今でも末席は末席だが)、いつの間に講師なんかすることになっとんねん、という笑い話ではある。

ただ、その「奈良PECS研究会」のワークショップに息子の支援学校の先生が参加されたこともあって、いつの間にか息子の支援学校の茶話会みたいな研修会の講師にヨメさんが招かれる、という実におかしな事態に発展している。

支援学校の研修会はPECS研とは関係ないので、TEACCHの話に始まって㈱おめめどう(説明は省くが)の話まで幅広く展開することができる。おめめどう社長のハルヤンネさんの教えからウチが永らく息子と接するための指針としていた三つのこと、
1.本人からの表出があれば、すぐに叶えること
2.選択させること
3.スケジュールを教えること
を端緒として話を展開する予定だという。

このうち幼少期においては「1.」がものすごく重要なのだが(発語の少ないカナータイプの子にとってはこれをやったかどうががその先の人生を左右すると言っても過言ではないと思っている)、それを解説するのは本稿の目的ではないのでここでは省かせていただく。

で、「3.」のスケジュールの部分の講和作成の下話をヨメさんとしていたのだが、私が言う話の中で、どうしてもヨメさんの腹に落ちて行かないものが一つだけあった。

冒頭に書いた「我々(自閉症圏ほか発達障害界隈の支援者等)がいつも言うスケジュールって、一般の人がスケジュールと聞いて頭に思い浮かべるものと全く別物やんけ」という話である。

この話、ヨメさんに言わせるとすこぶるわかりにくい内容だという。昔から当たり前のようにスケジュールをしてきた身からすると、今まで考えたこともない内容だから、ということらしい。

だが、我々が常々使っている「スケジュールをする」という用語自体が一般の用法と異なることにお気づきだろうか。一般の意味でその用語を用いるならスケジュールを「作る」だろう。我々の界隈では「スケジュール」という言葉が名詞よりもむしろ動詞的に使われる事象自体が、両者の間における「スケジュール」の概念の相違を示唆しているようにも思われる。

我々界隈で「スケジュールをしてくれない」という話をよく聞くのは、やろうとしない支援者にとってはまず第一に「やった場合とやらない場合との有意差が分からない」(やってもやらなくても一緒じゃないの?と本心では思っているし、その結果、効果が見えにくいものに対して労力をさいて行動を起こすのが面倒くさいと感じている)のが最大の原因だと常々思っているけれど、それ以外に、そもそも「スケジュール」の概念が共有できていないのもスケジュールが浸透しない原因の一つではないか、と思うのである。


では、一般の人がスケジュールを「作る」とはどういうことを指すのか。それは平たく言えば、その先にやらねばならない、あるいは、やりたいと思っている工程に順序をつけて時系列に並べ替える作業である。で、出来上がった一覧表が「スケジュール」である。

例えば、家事にしても掃除、洗濯、買い物、料理とかがあって、それらをどの順序で何時ぐらいから取りかかるか大まかに決めておく、ということはどんな人でも多かれ少なかれやっていることだろう。それは別に紙に落とし込まなくてもよい。頭に思い描くだけでもよいのである。この「用件を時系列に並べて整理する」という行為自体が、一般社会における「スケジュールを作る」という行為の本旨である。そこに重要な要素としてあるのは、「スケジュールの作成(用件の並べ替え)が作成者自身の意思をもってなされる」という点である。

ここに、我々の界隈における「スケジュール」の概念とは大きく異なる点がある。そりゃ、学校における時間割表もスケジュールの一種だろうし、遠足のしおりにある行程表もスケジュールには変わりないが、スケジュールを配布される側である児童・生徒の側(スケジュールの作成に意思関与せず、決定通知を受け取るだけの側)からすれば、それはスケジュールというより単なる「予定表」という言葉が似つかわしいだろう(仕事においては「スケジュール」を受け取ることがあるが、それは機関の意思決定として自らを含むメンバーの意思の調整の結果という色彩が少なくないだろう)。

だから、この世界に新しく入ってきた支援者の人にとっては、既にあらかじめ定まっている時間割表に対して「スケジュールをする」ということがどういうことなのか、頭の中になかなか入ってこないのではないかと危惧しているのである。


我々発達障害界隈にとってスケジュールの本旨とは、予定の整理ではなく、既に定まっている予定の「呈示」である。そう言うとヨメさんから、「でもスケジュールを2種類作ってどっちがいいか本人に選んでもらうこともあるやん」と言われたが、それはスケジュールではなく、冒頭に示した三つの指針の中の二つ目、「選択させること(選択活動)」の範疇である。

一般の人の「スケジュール」の場合は、そこに書かれた工程の内容(洗濯、とか買い物、とか)が作成者と受け取る側とである程度共有されているのが前提である。学校の時間割表にしても同じで、月曜日の2時間目に「算数」と書かれていれば、それを見る児童のほうも、足し算やら掛け算やらを教えられる時間なのだな、ということを理解している、ということになる。

だが、自閉症児の場合は違う(軽度なら分かる子もいる、という注釈は一応つけておく)。だから、今日の学校で行われることが何なのか、それを、視覚優位の発達障害児でも分かるようにビジュアルを主体にして示してやることが、我々の界隈でいう「スケジュールをする」ことの本旨なのである。一般の人が言う「スケジュールを作る」こととは、そもそも行動の本旨が異なるのである。

健常児の場合なら、時間割表に「算数」と書かれていれば、当日のカリキュラムが分からなかったとしても不安になることなく登校することができるだろう。それは、ありていに言えば、「算数」というのがどういうものかだいたい分かっているし、「行けばなんとかなる」と思っている、ということである。だが自閉症児であれば、コミュニケーションの障害からこの「行っても何とかなる」という確証が得られないため、「行っても何とかなる、いや、行ったら楽しいかも知れない」と思える情報を与えることが絶対に必要なのである。そして、その必要な情報を与えることこそが、我々の作る「スケジュール」の最大の役割に他ならない。


例え話を一つ。

よく、テレビで見る芸能人の運動会などで、模造紙を貼ったボードが立てられており、二つある片方を突き破れば何もなくゴール、でも、もう片方を突き破れば箱に落ちて粉まみれになるか水たまりに落ちるか、みたいな場面を見かけることがあるだろう。スケジュールをされていない登校前の自閉症児は、あの模造紙の前に立つ芸能人と同じ境遇に置かれているのである。

しかも、スケジュールをされていないということは、模造紙の前に立つ芸能人よりひどい状態に置かれていると言っても過言ではない。芸能人であれば、ハズレを選べば粉まみれになるか水たまりに落ちるか知らされてから走り出すものだ。だが、スケジュールの呈示を受けていない自閉症児にはその情報さえもない。

健常の人間でも、模造紙の向こうが全く不明で、もしかしたら槍がこっちを向いて立っているかも知れないと思いながら走り出せる人がいるだろうか、いやそれ以前に、紙の向こうに何があるか全く知らされない状態で模造紙を突き破る勇気を持つ人がどれだけいるだろうか…

スケジュールをしない人というのは、そんな状態で障害児の手を無理やり引いて模造紙を突き破らせようとしているようなものなのである。

しかも、自閉症児は視覚優位である。その模造紙に「USJ」と書いてあったとして、それだけで内容は理解はできない。模造紙を突き破った向こうに本当にユニバーサル・スタジオ・ジャパンTMが広がっているのか、そして、そもそもユニバーサル・スタジオ・ジャパンTMがどんな場所なのか、それをあらかじめ呈示して教えるためには我々の言う「スケジュール」が不可欠なのである。

模造紙の紙を剥がして、向こうがどうなっているかを視覚的に見えるようにしてやるのが「スケジュールをする」ことだと言ってもいいだろう。

一般の人なら、「USJ」がユニバーサル・スタジオ・ジャパンTMを指すことは自明であり、そこにどんなエンターテイメントがあるのかは事前情報として当然に共有されているであろう。だが、自閉症児は違う。それらはきちんと「スケジュール」として呈示してやらねばならない性質のものなのである(そう言うと、我々が言う「スケジュール」という用語が実は一般の人にとって不自然であることに気づくだろうか)。楽しいことならスケジュールを作らなくていい、ということでは断じてない。それが本当に「楽しい」ことなのか、スケジュールなしには発達障害児は必要な情報(=心証)を得ることができないからである。

この情報が足りないと、大人が楽しいはずと思っているUSJの前で子どもが癇癪を起こす、ということが本当に起こる。若い頃にテーマパークの中でこれをやられて頭を抱えた経験を持つご両親のツィートを見たのは最近のことだっただろうか。

このように、自閉症児にとって理解しづらいことを視覚的に「見える化」すること(目に見える物の中で全てが収まるようにすること)を含めて分かりやすくすることを「構造化」というが、その中でも、時系列を整理して行動予定を視覚的に目で見て分かるようにするスケジュール化のことを特に「時間的構造化」と呼んでいる。


あとは余談となるが、もう一つ触れておきたいことがある。選択は尊重してやれ、ということである。

複数のスケジュールの呈示することで子どもに選択をさせる(どちらがいいか選ばせる)ことがある、ということは前半で触れたが、例えば、さっきの模造紙の例でいうと、片方の模造紙には「USJ」と書かれており、もう片方には「田んぼ」と書かれていたとする。当然、それをビジュアルで見えるようにするためにスケジュールを子どもに呈示するのだが、片方にはユニバーサル・スタジオ・ジャパンで遊ぶ子どもが書かれ、もう片方には田んぼにはまって泥だらけの子どもの姿が描かれていることだろう。

だが、この状況で得てして子どもは「田んぼ」を選ぶことがある。

その選択は尊重してやらねばならない、ということである。楽しいのなら子どもは当然USJを選ぶはず、というのは単なる大人の思い込みでしかない。実際にはそうとは限らない事例はいくらでもあるのである。

ウチの息子も幼稚園児時代の通園途中に嬉々として田んぼに飛び込んで通報されたクチだが、かのハルヤンネさん(㈱おめめどう社長)の著書にも、せっかく息子さん(ダダくん)と広島市民球場に行ったのに息子さんは試合を見ようともしなかった(だから試合の時間帯に球場に行けなかった)、というボヤキが書かれている。で、ハルさんが言うのは、大人が思う「せっかく広島まで来たのに」の「せっかく」を捨てろ、ということである。夏の暑い盛りなら、USJより田んぼで泥遊びを選択する子どもがいてもおかしくはない、ということなのである。

だから、その選択を大人は尊重してやらねばならないのである。その結果、実はUSJのほうが楽しかったのだとしても、その選択の結果は本人に帰するべきなのである。

これには「自己選択・自己責任」という言い方をされることが多いが、実は健常(定型発達)の子にも言えることである。大人が指図ばかりして本人に選ばせないでいると、本人は自分の選択の結果を自分で受け入れるという機会をいつまでも得られないまま大人になってしまうのである(実は昨今の「指示待ち族」急増の遠因はこれではないかと思っている)。

だから、「田んぼ」を選んだ子どもを無理やりUSJに引っ張っていくということは絶対にあってはならない。だって、子どもは本当に今日はUSJより田んぼのほうが楽しいと思っている可能性が少なからずあるわけで、それを「そんなはずはない。USJのほうが楽しいに決まっている」と本人の意見に耳を貸さず無理やりUSJに引っ張って連れて行くのは、支援者としては想像力が欠如していると言わざるを得ず、故・佐々木正美先生が忌み嫌う人材として示した「熱心な無理解者」の一つの典型例と言って間違いないだろう。

え?そんなやつおらんやろ…と思ったそこのアナタ、あなたの身の回りにも一人ぐらいこんな人いませんか?

…ラーメン屋に入る。塩・しょうゆ・味噌の三種類のラーメンがある。みんなで注文を考え始める…とその瞬間、「え?この店で食うラーメンは味噌に決まってるだろ? え?しょうゆ?そんなの邪道だよ。味噌にしろよ味噌。お前も味噌な。おい、何言ってんだ、みんな味噌食え、もう頼むそ。(店主に向かって)すみませ~ん、味噌ラーメン3つ!」

…あなたはしょうがが苦手です。丸亀製麺に先輩と3人で。それぞれ麺を取ってお金を払ってダシのところまで行く…前を歩く先輩「おい、しょうが入れてやるよ」「あ、私しょうが苦手なんです。すみません」「いや、讃岐うどんはしょうが入れるとうまいんだよ。ほら、入れろよ」「いえ、すみません…苦手なもので」「そんなことないよ。食ったらうまいから、ほら」と勝手に私のうどん鉢にしょうがを放り込む先輩…もう食べられないじゃん…

この二人の「熱心な無理解者」に共通しているのは、ともに「悪意はない」ということ、そして、相手(私)にとって「よかれ」と思って行動していること、で、その「よかれ」を相手に押しつける熱意…

結局、「熱心な無理解者」というのは、人間は個々でみな違う個性や価値観や好みをもっている…ということが理解できない人、一言で言えば「自他の境界線のない人」(人はみな自分と同じか、同じであるべきだと思っている人)なのでしょうねぇ…


※普段のつぶやきはこちらで… http://twilog.org/jiheiworld

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