@tos ワンドロお題「マミさんのピーチパイを食べる杏子」




 おいしそうなにおいが部屋をいっぱいに満たし始めて、あたしの口の中には自然と唾液がたまっていった。マミが調理をする音はまるで楽器を奏でているようで、とてもきれいだ。つくっているときでさえ芸術のように感じられるのだから、マミはほんとうにすごい。
 じわ、と心の奥のほうになにかがたまっていく。完成がちかづくにつれて徐々に満ちていくそれにあたしはざわついた。ああ、はやく。急かしたい気持ちと、座って待っててと言ったマミの柔らかいけれど有無を言わさぬ物言いを思いおこす。結局なにもせずに待っていることにした。まるで犬のようだとさやかなら笑うのだろうか。実際、今のこの状況ではそれを否定することなんてできるはずがなかった。
 ゆらゆらと身体をゆらすと、そのたびにあたしの長い髪もいっしょに動く。そうしてただ過ごしているだなんて、少し前の自分が見たらどう思うのか。そんなこと、考えなくても決まっていた。きっと、鼻で笑ってまたごまかすんだ。あたしはひとりで平気だって。そんなあまちゃんになり下がるなんておかしいって。でも、そんな嘘はもう自分につけなくなってしまった。

「意地、はってたのかな。」

 ぽつりとつぶやくと、誰にも伝わらずに空気をふるわせてその言葉はきえていく。こんな空間にひとりでいたマミは、どんな気持ちだったんだろう。そんなことを考えて、瞳をほそめた。そうしないとあふれ出てしまいそうで、だからそうするしかなかったんだ。
 ぎゅうと手を握ると少しだけ自分を律することができるんじゃないかって錯覚する。そうして強がっていったいなにが残ったのか。そんなの、むなしさだけだった。大丈夫だって言いきかせて思いこんで、傷つけることだって平気だってたくさん傷つけた。今は爪をたてることさえこわくてたまらないだなんて、言えるはずがない。
 これ以上変な気分にならないようにと目をとじた。深い暗闇におちていって、少しずつ意識がうばわれていく。そうすると考えなくてもよくなるんだ。だから、ひとりのときはよく眠った。現実からの逃避にすぎないと笑われたって、あたしはこれをやめることはできない。
 おやすみなさい、あたし。いいゆめを。





「さくらさん、さくらさん、」

 とんとんと断続的に肩をたたかれて、黒はだんだんと白にかわっていく。ぱちりと瞳をあけると目の前にマミの顔があった。距離が思った以上に近くて、思わず後ずさる。そんなあたしの様子を見てマミはしゃらしゃらと鈴がなるように笑うから、きっと確信犯だ。むぅと頬を膨らめるとマミが謝ったけれど、笑いながら言われたって効果はないに決まってる。マミのはちみつみたいな髪がまぶしい頭に軽く拳をあてて振り下ろす。痛くないげんこつ一発それでゆるしてやったあたしは寛大だと思う。

「ごめんなさいね。」
「いいよ、別に。」

 マミはあたしが気にしていないことを察したのだろう。くるんと反転してキッチンの方へと向かっていった。同時にくるくるが動くから、さっきのあたしのようだとぼんやりと考える。おそろいみたいだなんて思うあたしの思考回路にげんこつをくれてやりたくなった。
 踵をかえしてこちらに来る音がして、あたしはマミを見上げた。あまいにおいと共に戻ってきたマミの手に持っているものが目にとびこんだ。

「……ピーチ、パイ。」
「ピーチパイ、好きでしょう?」

 ああ、せっかく眠るまえにおさえたというのにまたあふれてしまいそうになる。マミのこういうところは、ほんとうに意地悪だ。前に食べたときよりもさらに形のととのったそれを見るだけで、どうしていいかわからなくなる。もしかして、だなんて頭が回ってしまう。
 ――もしかして、いなくなったあとも、作ってた?

「なあ、マミ……あの、さ。」
「佐倉さん、あーん。」

 質問を返す前にマミは予想もしていなかったことをしている。いつだってそうだった。マミは簡単にあたしをのみこんで、想像もできないものを与えてくるんだ。
 は、と声を生みだすことさえ失敗したあたしのだらしなく開いた口に、マミはピーチパイを入れてしまう。口の中にひろがるあまさはやさしくて、それでもやさしすぎないあたたかなものだった。こんなの、ひどい。ずるい。もうあたしは何も抑えられなくなっていた。
 ぼろぼろととまらない洪水がおこって、もうとまらない。ずっと涙をながすことも忘れていたのに、このひとはこうも簡単にあたしにそれを思い出させてしまうんだ。きっとあたしはこれからもずっと、このひとには敵わない。

「う、ぁ、」

 ぎゅうとあたしを抱きしめてくれた先輩の背に手をまわして、あたしはただただ泣き続けた。だまってあたしを包みこむマミの瞳からも同じものがあふれている。そうして、実感する。そうだ、ずっとここに来たかった。目をそらしていた大切なひとが今ここにいる。やっとあたしはかえってきたんだね。素直にそう思える今がとてもしあわせだった。

「佐倉さん、おかえりなさい。」
「……ただいま、マミさん。」

 ありがとう、ずっと待っていてくれて。





( しあわせな家族の話。 )

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