和紙子氏がニコニコニュースが配信している日刊ナックルズの記事の削除を求めている前RT(以下にも引用してあります)について、あらためて自分の考えを書いておきました。綴ってみたら、3000文字をオーバーしましたので、TwitLongerというサービスを使って長文投稿します。
どうぞよろしくお願いいたします。

和紙子@腐女子であることは罪ではない ‏@amezaiku
一昨日からあまりの事態にガチ切れしていたが、やっと冷静になってきました。日刊ナックルズからの返答は一月七日まで待ちます。それでも連絡がなければ弁護士に削除依頼を頼み、場合によってはそれ以上も考えます。

前ツイートは、今日、ピクシブなどでの“女性向け作品の集団投稿”を呼びかける和紙子氏がツイートしたものです。
個人的にどうしても許容できない部分を含んでいるので、年末に続いて批判しておきます。
本件はそもそも、和紙子氏が年末に、“集団投稿”について「ネットテロ」と書いた日刊ナックルズの記事を配信したニコニコニュース(http://news.nicovideo.jp/watch/nw896078)に、「デマを拡散している」として「すぐに対処する」よう求めたものです。
このとき私は、自分を批判する記事について“抹消”を求める和紙子氏の考え方に非常に違和感を覚えたので、「自分たちの表現の自由を守れという人間が、他人の口は塞いでやるっていうのは、なんなの、新手のギャグなの」「反吐が出る」というツイートをしました。
これに対して、和紙子氏からは「それはデマを批判するなということですか」という趣旨のリプがあったので、「ご批判は自由にされてよいと思います」という返答を差し上げましたが、なぜか和紙子氏は私に対して「批判することを止めろと言うのは人権侵害だ」と言い、私はそのままツイッター上でブロックされてしまいました。
ご覧のとおり、私は「ニコニコニュースや日刊ナックルズを批判するな」と一度も言っていませんし、和紙子氏に対しても明確に「ご自由に」と答えているので、まるで狐につままれたような気持ちでした。
さて、それから数日、今回のツイートが和紙子氏からありました。
この間、他の方から「ねつ造やデマについては、表現の自由は制限されるべきだ」というツイートも頂きました。
一般論としては至極妥当に見えるこの考え方が、本当に今回の和紙子氏のケースに当てはまるのか、今回は見ていきたいと思います。
今回、和紙子氏が「デマ」「削除せよ」と言っているのは、自分たちの“集団投稿”を「テロ」と呼ぶ日刊ナックルズの記事です。
和紙子氏は、ピクシブなどの規約に違反するものではない自分たちの集団投稿行為を「テロ」と呼ぶことは「デマ」であり、このような記事は「削除せよ」と主張しています。
まどろっこしく書いてもしかたがありませんので、結論から書きますが、和紙子氏が呼びかける“集団投稿”を「テロ」と呼ぶかどうかは、いかにそれが和紙子氏の気に入らないものであったとしても、これは記事を書いた人間の主観による「論評」「批評」に過ぎません。
ある物事について、私はこう思うという意見の表明です(たとえその書き方が稚拙であったとしても)。
記事の中で、和紙子氏の呼びかける“集団投稿”が、例えば「ピクシブの規約に違反している」などのように事実として正しくないことが書いてあれば、それは間違いであって、少なくとも訂正の対象にはなるかもしれません。
しかし、和紙子氏の呼びかける“集団投稿”を「テロ」と呼ぶかどうかは、記事を書いた人間のあくまで「論評」「批評」です。
このような個人の意見の表明について、それがいかに受け入れがたい意見であったとしても、それを「デマ」だと決めつけて、それを世の中から一方的に「削除」つまり抹消することを求めることは、私には絶対に許せません。
そして、それを主張する和紙子氏は、一方においては、自分たちの「表現の自由」を守れと声高に主張しています。
このような二面性は、最初のツイートに書いたとおり、私にとってはまさに「反吐が出る」としか言いようのないものです。
こう書くと、和紙子氏は「ピクシブの規約に違反してないのに、それを『テロ』と呼ぶことが許されるのか」と言うかもしれません。
じつを言えば、私自身も“集団投稿”が「テロ」かというと、決してそんなことはないと思っていますが、しかし記事を書いた人間や、そして今ネット上で“集団投稿”を「テロ」と言っている人たちは、彼ら彼女らにとって「テロ」と思える何かがあったのでしょう(規約に違反していないのにという反論は意味がありません。彼ら彼女らが“規約に違反した”ことだけを以て『テロ』と呼んでいるかどうかわからないのですから)。
それは和紙子氏にとっては、絶対に受け入れられない「批評」かもしれませんが、これは単なる事実として間違っているという性質のものではなく、ある事実について個人がどのように感じたかについての意見の表明にすぎません。
よく考えていただきたいと思いますが、“集団投稿”について「テロ」だと言う「批評」は、世の中から抹消されなければならないほど重大な他者への侵害を伴うものでしょうか。
発表することすら許されない「批評」でしょうか。
繰り返しになりますが、そのような意見の表明を一方的に「デマ」だと切り捨てて、そもそもの記事の「削除」を求め、相手の口を塞ぐような行為は、絶対に私の受け入れられないところです。
もし今回、和紙子氏の圧力によって本当に記事が削除されたとしたら、今後、同種の記事を出そうというところはなくなるでしょうし、一個人としても、もしその個人が和紙子氏の“集団投稿”について「テロ」だと感じ、それをツイッターなどでつぶやこうとしても、躊躇する人が出てくるかもしれません。
まさに他人の意見の表明について「口を塞ぐ」行為が、今回の和紙子氏の主張なのです。
そのような将来にわたる言論の抑圧までを、和紙子氏が目的としているのかどうかは私にはわかりませんが、結果としてそのような効果は十二分に発揮されると言ってよいでしょう。
さて、ここで「ねつ造やデマについては、表現の自由は制限されるべきだ」という一般論について、もう一度考えてみましょう。
じつをいえば、こんなことはあらためて言うようなことでもなく、当たり前のことです。
例えば、別れた恋人のポルノ写真をネットにアップする、まったく事実ではない中傷をビラに書いて相手の近所に撒く――そのような行為が「表現の自由」の完全な保護を受けられないことに、「NO」を言う人はいないでしょう。
しかし、ある事実について個人がどのように考えるか、そのような意見の表明は制限されるべきではありません。
年末にあった安倍晋三首相の靖国参拝について、ネットで検索すれば出てきますが、外国の政府関係者の中には「クリスマスのテロ行為」と表現した人間もいたと言いますが、このような意見の表明は「デマ」だとして、世の中から抹消され、今後も認められるべきではないのでしょうか。
言われた人間は腹も立つでしょうし、「絶対に違う!」と言いたいでしょうけれど、世の中である行為を行い、とくにそれが他者へのデモンストレーションを目的とするような行為であれば、それに対しては気に入らない意見が寄せられることを、行為者は絶対に「甘受」しなければなりません。
あまつさえ、それを「デマ」と切り捨てて、「削除」を求めるなど、絶対にあってはなりません。
和紙子氏に問われて答えたとおり、この件について和紙子氏が記事を批判し、自分の行為を「テロ」と呼ぶ意見の表明について、「それは間違っている!」と主張し、非難し、世の中に訴えることは、全くの自由です――というか、どんどんやるべきでしょう(そして和紙子氏は実際にそれを「やれて」います)。
しかし、そのような意見の表明を含む記事「自体」を世の中から消してしまえというのは、自ら「表現の自由」を最大限活用している人間が言ってはならないことです。
私は腹の底から怒りを覚えます。
和紙子氏は、今回の私の「批判」にも、自分への「攻撃」というラベルを貼るのでしょうか。
ご自分への「批判」がすべて「攻撃」に見えるとしたら、それは「表現の自由」が保障された社会の中では、とても不幸なことだとしか言いようがありません。

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