山口の山村で起こった事件。
 事件には変わりないけれども、事件以上の日本の触られたくない核心を内包としている出来事だけに、事件発生からその経緯が明らかになるにつれ、日本のデジタル発信の場でも、この出来事は消去されんだろうという直感がその通りになっています。しかし喉に痞えて飲み下しできなのは、被害者が容疑者であり、容疑者が被害者であるという事件の核心があり、それによって飲み下しようにも飲み下すことが躊躇う、人の罪徳感が痞えさせている……そのようにU.S.A.からおもうのです。
 都市に人を送り出し、その送り出した人を掩して、それをして都市を支える生の圏が踏ん張ろうにも踏ん張れないところまで来たなかに、エゴイズムもミクロのエゴイズムを背負った人間が都会でマクロエゴイズムになり、その都市では支え切れないマクロエゴイズムの灰汁なり澱みが支える側に還流してゆき、ミクロとマクロの混淆のエゴと踏ん張り切れない状態が混淆して、いっそう苦くて飲み難い生存圏のギリギリさに追い込まれています。と同時に、述べたように、事件出来の頃の騒ぎようは、この事件の核心がちょっと出てきたら、いまはみんな知らぬ存ぜぬの空気はパッと出て来る。
 ぼくはそう直感していたけど、この事件は日本人が見ちゃいけないもの・知らないほうが賢明なもの──。話しても聴いても自分が問われてしまう、自分が自分を矢面に立たせてしまいかねない。
 私はここにも、都市であれ地方都市であれ、そして山村であれ、日本人の抱える「田舎暮らし」があるんぢぁないかなと改めて念います。

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