RT @unspiritualized 10年ほど前に両親が八ヶ岳のふもとに家を建てたので、長野の歴史や民俗を少しずつ調べている。今回、満州開拓団時代の証言を入手したので、メモ。かなり衝撃的な内容だ。

八ヶ岳のふもとのこの地域では、昭和4年の世界恐慌のあおりを受け貧困のどん底にあったという。その頃、村人の心をとらえたのが満州移民政策だった。全村の三分の一が移住することを村会で決議、900名が新天地に渡ったという。

ところが昭和二十年八月に運命は一転。村の成年男子はとうに軍に取られ、関東軍は対ソ戦で壊滅。そこに匪賊が襲いかかる。そこで、少年たちが決死隊となって戦ったという。さらに悲劇は続く。決死の戦いの足手まといとなる乳幼児を薬殺したのだ。そして、いよいよ集団自決か、という状況になる。

17歳の少年が、自決の前に、いちかばちかの助けを求めに行こうと立ち上がる。誰に?八路軍である。少年ら3名は馬ソリで雪の中を進んだ。八路軍は県城に陣取っていた。白旗を掲げて事情を話すと、中へ通してくれる。そして地区総司令官と面会する。それはなんと、林彪だったという。

林彪は日本人の少年たちの話を聞くと、50騎の騎馬隊を貸してくれた。急いで村人たちのところへ戻ると、匪賊や暴徒の度重なる襲撃を受けて負傷者や自決者が続出していたという。間一髪だったのだ。八路軍が匪賊を追い払うと、入れ替わりで治安のために助けに来てくれたのが、朝鮮義勇軍だったという。

村人たちが引き揚げるまで、朝鮮義勇軍は彼らを守った。中に日本の大学で学び日本語を話す男たちがいて親切にしてくれたという。村人たちも彼らに共感し、十数人が義勇軍に入り、残った(!)。引き揚げの途上でハシカが流行し大勢が亡くなった。昭和二十一年十月に長野へ帰郷。犠牲者は二百名以上という。

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