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Novluno · @novluno

13th Jan 2012 from SimplyTweet

月曜日の深夜に、友人との会話の中で戸塚ヨットスクールでまた自殺(と、ろくな捜査も行われず断定されているが)があったと知り、翌日の昼に友人たちと戸塚ヨット前に花を手向けに行った。一緒に行った友人たちは、情緒障害当事者であり不登校経験者であり、この事件が「他人ごととは思えなかった」から数時間後には東京から早朝新幹線に飛び乗って名古屋にやって来た。では、わたしは?
わたしも戸塚ヨットに向かったのは「他人ごととは思えなかった」からなのだけれど、その立場性は異なる。戸塚ヨット訓練生と自分を重ね合わせたり、彼/彼女たちに近しいものを感じたりしたのではなく、自分の中にこそ「戸塚的なもの」が存在し、それがまた人を殺してしまったからこそ、行かなくてはいけないと思った。
自宅から1時間ほどの距離にあるにもかかわらず、戸塚ヨットスクールを直接自分の目で見るのは初めてだった。戸塚ヨットスクールは拍子抜けするほどに小さく、古く、こんなところに人を死に追いやることができるとは俄には信じられなかった。しかしひとりの訓練生が亡くなった翌日であったからか、その佇まいから発せられる重苦しい空気に押しつぶされそうだった。「自殺した」とされる青年は、寄宿舎に面した道路に向かって飛び降りたそうで、道路にはまだ赤く流れた血だまりや飛沫もしっかりと残っていた。見たことも会ったこともない青年の、生きていた証として目にしたものが彼の残した血の跡だけというのは、この社会はいったいどんな「戦場」なのだと目眩がした。
亡くなった青年は戸塚ヨットから逃げ出せば、楽になるとは考えなかったのだ。彼は、わかっていた。戸塚ヨットは「壮大なる教育と訓練が繰り返される社会の一部」であって、そこから出ていこうがいくまいが、大きな違いはないのだと。「戸塚ヨットスクール」の外には「戸塚的社会」が待っている。
人を死に追いやるシステムはわたしたちの外部にあるものではない。戸塚ヨットも、その「トレーニング」の手法に関しては批判する人も少なくはないのだろうが、それはやり方が過激で暴力的であるからということにとどまっている。では戸塚ヨットの手法が過激で暴力的でなければ被害者は出ないのだろうか?わたしはそうは思わない。暴力的で過激ではなくとも、ひとりの人間を死に追いやることは可能だし、現実にそのように社会に殺されていく人々が年間何万人もいる。やり方が暴力的でないからこそ、緩やかだからこそ、真綿で首を絞めるように、逃げることができずに絶望に追い詰められることのほうが多いのだ。統計などで人の死を計ることはしたくないが、日本では年間の殺人と自殺では自殺のほうが30倍近く多い。物理的暴力に拠らずとも「殺人」は可能だ。
現在の社会では個人が社会のために教育と訓練により「社会に合わせて」生きざるを得なくさせられている。そこかしこに溢れている教育やトレーニング、そして「治療」を謳った場所は残念ながら個人のためのものではない。社会のために個人を矯正する場だ。社会とは多様な人々の集合体であるはずなのに、現状では社会的につくられた「障害」というものを個人が負わされ、社会で生きにくさを抱え込まされている人々は常にどうすればこの社会に「受け入れられ」て生きていくことができるのかを考えて行動することを強要されている。寛容に受け入れるのか、排除するかどうかを決めるのは障害をおわせている側だ。だから彼は「人生に疲れ」、死ぬことでしか解放されないと考えた。彼の死は決して他人ごとではない。
わたしのなかにひそむ「戸塚的なもの」はいったいどうすればいなくなるのか。確実に言えるのは、花を手向けて彼の死を悼むだけでは、「戸塚的なもの」はいなくなってはくれない、ということだけだ。

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