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 NHK Eテレの『ハートをつなごう』HIV特集第4弾「エイズ30年 当事者たちが語る」、1日目の放送が終わりました。この番組を『ハートをつなごう』でやってくれたことは大英断だと思います。29分ではまとめるのは難しかったと思うけど、ポイントはしっかり押さえてくれていたのではないでしょうか。さすが、名ディレクター。
 さて、番組中、私は叔父の話をしました。少し補足したいと思います。

 私の叔父は、私と同じく血友病で、薬害でHIVに感染しエイズを発症、1991年、34歳の若さで亡くなりました。
 当時の叔父の免疫の数値を見ると、それほど低かったわけではありません。むしろ、5~6年前の私の免疫の数値の方が、数段、低いくらいです。それでもエイズを発症して亡くなった叔父。なぜなのでしょうか。
 私の叔父は、役所に勤めていました。優秀な人でした。役所にはトップの成績で入り、将来を嘱望されていました。
 それが、ある日突然、血友病の定期受診の際、医師からHIV感染を告げられました。そして、徐々に体調を崩していきました。
 役所は、様々な個人情報が流れる場でもありました。今ほど個人情報保護が言われていない頃でした。職場で叔父が血友病であることが知れ、徐々にやつれていく叔父の容貌から、いつからともなく「あいつはエイズじゃないか」という噂が流れ始めます。
 人は、残酷です。叔父の側には、誰も近づかなくなりました。周囲は、叔父を露骨に避けるようになりました。
 しかし、生きるために、叔父は仕事を失うわけにはいきませんでした。役所を離れたら、もう生きる術はない。叔父は、悲壮な決意で、毎日、職場に通い続けました。
 叔父の髪は、日に日に、白くなっていきました。体重も、どんどん減っていきました。
 そして、それほど免疫が下がっていない段階で、エイズを発症しました。エイズ脳症でした。認知症のような症状が出て、死ぬまで、もとの叔父に戻ることはありませんでした。
 叔父がエイズ脳症になって、ある意味、私は良かったと思っています。脳症になることで、それまでの苦しみから叔父は逃れることができました。
 脳症になって良かったなんて、こんな寂しい話はありません。でも、私はあえて書きます。エイズ脳症になることが、不幸中の幸いでした。それくらい、叔父の置かれている状況は、悲惨を極めていたのです。
 叔父が34歳で亡くなったとき、私は13歳でした。私はまだ、自分のHIV感染を知らされていませんでした。
 私は、叔父の命を奪っていったものは、HIVという病だとは思いませんでした。叔父をむしばみ、死に追いやったのは、差別・偏見でした。人が、叔父を死に追いやったと思いました。
 私は、その時、差別・偏見は人を殺すのだと知りました。そして、その差別・偏見は、自分の中にもあることを知りました。
 正直に言います。私は、叔父のHIV感染を聞かされ、何度か、叔父を怖いと思いました。当時はまだ、自分のHIV感染を聞かされていなかったため、叔父と同じ食事をし、同じタオルを使うことが怖いと思っていました。一度、叔父が使ったスプーンを使うのを躊躇したことがありました。その瞬間を、叔父は見ていました。叔父は寂しそうな目をしました。私は、死ぬまで、あの瞬間を忘れることはないでしょう。
 もう一度書きます。差別・偏見は、人を殺します。そして、差別・偏見は、私の中にもあります。私は、叔父を奪った差別・偏見が憎い。その差別・偏見が、自分の中にもあることが恐ろしい。
 そして、叔父が亡くなった3年後、私は自身のHIV感染を知りました。

 以上のような理由で、差別・偏見というのは、私にとって、二重の意味で他人事ではありません。私には「差別反対」と、正義面してイノセントに叫ぶことはできません。同時に、訳知り顔で「差別はなくならないよ」とシニカルにつぶやくつもりもありません。

 自他共に向かって言います。差別は嫌だ。偏見も嫌だ。人を死に追いやるほど苦しめる権利など、誰にもない。でも、人はそのように振る舞うことがあり、そのような力をもつ。そのことを絶対に忘れてはいけない。叔父の哀しみを、二度と繰り返してはいけない。

 来年、私は叔父が亡くなったのと同じ、34歳になります。そして、叔父が亡くなった時の主治医は、今日の放送で出ていた根岸先生でした。叔父が一番苦しんでいた33歳という歳で、私は根岸先生と同じVTRの中にいました。因果なものです。

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